現役編集者の書評ブログ

ビジネス書の編集をしています。読んだ本を不定期で紹介します。

【書評】『個人的な体験』大江健三郎

表現の「自主規制」

「最近のテレビはつまらない!」といった声をよく聞く。

予算が厳しいとか、優秀な制作者が集まらないなど、いろいろな理由が指摘されているけれど、その中でも最もよく言われているのが、制作サイドの「自主規制が行き過ぎている」ことだ。

 

 

僕が物心ついたときには、すでに過激な番組はほとんどなくなっていたが、それでも今ほど窮屈な感じはなかったように思う。

時代の流れで仕方がないとはいえ、「子供に悪影響だから喫煙シーンはなくすべき」や、「未成年飲酒は犯罪だから大学生のコンパシーンは流せない」など、制作者側が世間一般の意識よりも行き過ぎた規制を敷いている。

 


これはネット社会によって、一人一人の声が大きくなってしまっていることが原因だと思う。これまで少数派であり、注目を浴びることのなかった意見がネット上で急に話題になり拡散される、といったことが起こるようになった。

 

 

そのような状況では、「多く」の人が認めてくれるところに基準を作るのではなく、「すべて」のひとにとって許される基準にしなくては、思わぬところから炎上してしまう危険性がある。

Yahoo!ニュースのコメント欄、星の数ほどのブログ(これもそのひとつだけど)なんかを見ていると、ほんとに「一億総評論家の時代だなあ……」と思い知らされる。

 

 

その結果、制作者側はどんどん自主規制を強め、とにかく炎上を回避し、“優等生”的な映像を作るようになっていく。

「最近のテレビがつまらない!」と苦言を呈す視聴者側が、今の自主規制だらけの流れを作り出しているのだから、これほど皮肉なことない。

 

 

このような「自主規制」の波に飲み込まれそうになっているのは何もテレビ業界だけではない。僕らのいる出版業界も 同じような問題をかかえている。

 

 

もちろん人を傷つけるような差別表現や、不快にさせるような表現は避けるべきだ。

しかし、あまりにも極端な規制を敷いてしまえば、著者の強みを生かし切れなかったり、執筆の意欲を削いでしまうことになりかねない。 

 

 

そうやって作った本を読者は認めてくれるだろうか。「より刺激的な情報を!」と本を捨てネットへと走っていってしまうのではないか。

今回紹介する本のように、たとえ批判されるような内容を含んでいたとしても、出版すべき、読んでおくべきものも多いはずだ。

 

 

 

『個人的な体験』

書名:個人的な体験

著者:大江健三郎

出版社:新潮社; 改版 (1981/2/27)

ISBN:9784101126104

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新潮社より発行された大江健三郎の小説。第11回新潮社文学賞受賞作。

主人公の鳥(バード)と呼ばれる青年が生まれてきた子どもに対して感じる激しい葛藤を描く。

 

 

新しい命の誕生は喜ばしいことのはずなのに、なぜバードは葛藤を感じるのか。

それは子どもが大きな醜いこぶを後頭部に持って生まれたからだ。

 

 

生まれてきた子どもを見て、院長はげらげら笑い、若い医師はいますぐ殺すことを勧める。バード自身もその子を自分の人生の重荷のように感じ、徹底的に逃げ回り、病院にいる間に死んでしまうことを望む。

 

 

実際にこの小説における赤ん坊の描写はかなり率直で、ひどい。

 

かれは他人の妻の足のあいだから、なにやらえたいのしれない怪物をひきだしてしまった。猫みたいな頭をして風船ほどにもふくらんだ胴体をもつ怪物? そんなものを産みださせてしまった自分自身を  羞かしがってくすくす笑いをしているのだ。

 

こんな描写が全篇にわたって続く。この小説の刊行は1964年だが、今だったら「命を軽く扱っている」などと出版差し止めの運動が起こるかもしれない。

 

 

しかし、これらの表現は、ただ人を不快にさせるものではなく、僕らが実際にこういう状況に直面したときに絶対に感じてしまうことなのだと思う。

僕らだって、街や電車でそういった障害を持った人を見かけたときに、言葉にできない感情が湧き起ることがある。それらを煮詰めていくと、上で挙げたような苛烈な表現に行きつくのではないか。

 

 

実は大江がここまで強烈に、しかしある種のリアリティを持って書くことができたのには理由がある。

作品とそれを作った人物の人生を結びつけるのはタブーではあるのはわかっているけれど、この小説に関しては、大江自身に起こった出来事を外さずに語ることはできないと思う。

 

 

大江自身の長男が、脳瘤のある障害者として生まれているのだ。

つまり、この小説は長男の光が生まれたときの実体験をもとに書かれている。まさにタイトル通りの「個人的な体験」だ。

 

 

その事実を知ると、大江がこういった小説を書いたことに、彼のとてつもない勇気を感じる。小説内の描写、そして、主人公の逃避は長男が生まれた当時の大江自身の状況や感情を反映させているものも多いだろう。

 

 

どうして、ここまで正直に子どもに対する負の感情を描ききることができるのか。僕だったら、一種の自己防衛で、「子どもが障害を持って生まれてきたけれど、全面的に愛することができた」といった内容を書いてしまうと思う。

 

 

しかし、大江は自分が当時感じたであろうことを率直に偽りなく描く。そんな勇気を持ち合わせているからこそ、一流の作家であったし、この小説も傑作として語り継がれているのであろう。

 

 

発信者側が自主規制をしてしまうような時代だからこそ、こういった作家、編集者、出版社の勇気や矜持を感じるような作品はより貴重に感じられる。

一億総評論家」の時代、ぜひこういった本を読んでもらい、表現者と受け取り手の関係についても、考えるきっかけにしてほしい。

 

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