【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』岡本裕一朗
僕らに見えているもの・いないもの
「海が大きく伸びをした」
これが何を意味しているかわかるだろうか?
答えは「津波」だ。
東日本大震災で被災した人が、津波のことをこういう風に表現したらしい。
この言葉を初めて聞いたときの衝撃を未だに僕は引きずっている。
自分だったら、同じような状況でそんな発言は絶対にできないと思う。
当時、多くの人が、家も家族も思い出も全て流され、自然に対する無力感や怒りを覚えていたはずだ。毎日のように放送されていた被災者の方々のインタビューでも、そうした気持ちを正直に吐露していた人がほとんどだった。
しかし、「海が大きく伸びをした」という言葉からは自分の受けた被害や、そのときの気持ちなどはすべて取っ払い、自分が目にした津波の様子をそのまま表現しているかのような印象を受ける。
自分の立場や感情を踏まえて物事を見つめるのが悪いということではない。
しかし、この発言をした人のように、鳥が上から見下ろすかのごとく、とても大きく、とても広い視点から考えることができれば、もっと自由にいろんな選択肢や、多くの人が気づかないような裏側が見えてくるのではないかと思うのだ。
社会に出てみると、こういった広い視点で考えられる人と、すべて「自分事」としてしか考えられない人の二種類がいることに気づく。
そして、前者の人の方が、より説得力のある意見を述べていることが多い。
こういった考え方が先の「海が大きく伸びをした」のように、言葉一つで明らかになってしまうのは、かなり怖いことだと思う。
自分が何気なく使う表現、言葉、その一つひとつに、その考え方がにじみ出てしまうのだとするならば、僕らは日常的に「どうやって考えるか」ということにもっと自覚的になるべきなのかもしれない。
『いま世界の哲学者が考えていること』
書名:いま世界の哲学者が考えていること
著者:岡本裕一朗
出版社: ダイヤモンド社 (2016/9/9)
ISBN:9784478067024
西洋の近代思想を専門とする著者が、AI、遺伝子工学、格差社会など、現代の諸問題に、哲学者が「いま何を考えているのか」を紹介していく。
まず、帯の「いつまでも『哲学=人生論』と思っているのは日本人だけ!」というコピーが非常に胸に突き刺さる。
確かに、僕らが哲学と聞くと、どうしても『こころ』の「K」のように、実生活に何の役にも立たない根源的な問いについて考え続けている、という印象を持ってしまう。
しかし、著者は「時代が大きく転換するとき、哲学が活発に展開されている」と述べ、現代の私たちの生活に関わる難問について、哲学的な視点からとらえなおすことを試みている。
AIや遺伝子工学などを解説する本は数多くあるけれど、本書がそれらの類書と徹底的に違うのは、著者の直接的な考えや答えを提示するのではなく、世界の哲学者の主張を紹介することで、一歩引いた視点から問題を見つめなおしていることだ。
著者だって、現代を生きる哲学者として、いろいろ言いたいこともあるだろう。しかし、本書に限っては、ある意味「黒子」に徹し、問題の所在を明らかにしつつも、著者自身の主張を押し付けずにいてくれるため、その問題について自分なりの答えを探ることができる。
本書で扱われている問題は大きく分けて、IT革命・バイオテクノロジー・資本主義・宗教・環境の5つだが、個人的には、IT革命の部分が一番印象に残った。
僕らはITの発達によって、SNSというツールを手にし、どんな人でも容易に情報を発信できるようになった。そのツールは民主化運動などで盛んに使用され、ついには、独裁国家を倒すまでの大きな流れを引き起こした。
以上の例などから、多くの人がIT革命は民主化に大きく貢献したと考えているように思う。僕自身もIT革命によって、以前よりも民主主義に近づいたといえるのではないかと考えていた。
しかし、本書では現代の哲学者が「ITが自動監視社会を生み出す」のを危惧していることが紹介されている。つまり、僕らが相手を監視しているとき、相手からも同時に監視されている、ということである。
スマートフォンを操作しているとき、僕らは顔の見えない何者かにのぞかれている。そういう風に考えられている人がどれだけいるだろうか。
本書では、こういった今まで自分勝手にとらえていた様々な問題を考え直す絶好の機会を与えてくれる。
一段上の視点から物事を考えるために。今まで捉え損ねていた問題について見つめなおすために。
「自分事」の思考から一歩踏み出すために手に取ってみてはいかがだろうか。